昭和四十八年八月十五日 朝の御理解
御理解第六十七節
「何事もくぎづけではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ」
長う続くという事は、おかげの世界が大きくなっていく事につながって居らねば、値打ちがないと思う、信心が長う続いておるというだけでは、ただ、信心が長う続くという事は、おかげが段々大きくなっておるという事につながって居る様な続き方でなければいけない、信心が大きくなれば、おかげが大きくなると、長う続くならば、続くほど本当の信心が出来る。
より大きな信心が出来て来るというのが、おかげであって、信心が続かなかったり、後退したりしたのでは駄目です、どうも、この頃私の信心が足踏み状態で、何て云う人があまりますが、絶対足踏み状態というのがあろう筈がない。
自分では足踏み状態のように思うとるけど、もうそれは、絶対に後退しておるのです、だから、信心はいわば前進あるのみです、前に進んでいくのみなんです、この頃どうも御無礼しとります、どうも信心が足踏み状態、決して足踏み状態じゃありません、必ず後退しておる時だと判らせて頂いて、愈々生き生きと前進する事に焦点をおかなければいけません、何事もくぎ付けではない、これは何事でもそうです、日々の………
昨日も今日も、対して変わった事は無いと云ってもです、もう同じ日としては決してありません、だからそこに止まっておるという事は決してありません、行く雲流れる水と云う事を申します。
例えば、雲が風のまにまに動いておらん様だけれども、ちゃんと二.三十分ほどおいて見てご覧なさい、もう雲の形も、位置も変わっておる、流れる水を見ておると、何時も同じ水がそこにあるようにあるけれども、同じ水という事は決してない、もう流れに流れきっておるのですからね、それが自然です、それを自然の働きと云う。 ですから私共も、そういう自然の働きにならはして貰う、便乗さして貰うという生き方を示された、教えられたのが、やはり、教祖の神様だと思いますね、天地日月の心になる事は肝要だという事は、そう言う事の意味も有ると思うんです。
だから、又ここでは各自に、信心を各自にしとかねば、長う続かぬと、こう教えておられるが、だから同じであって良かろう筈もないし、だから同じでない事が、だから本当はおかけだという事になるのです。
例えば私の信心が、白と致しましょうか、それだから、皆が白になってしまわなければならないという事はないのです、だから、それが本当だ、こう言うところを知らねばいけないというところに、矢張、長う続かん元がある訳です、これはもう愈々大きくなっていく事の為には、私はそれが必要だと思うですね。
御信者の中には、様々な一人一人人相が違う様にです、考え方も又違うのです、同じ線に沿うて信心を進めておる様であっても、矢張、その人流と云うのが出て来る訳です、私の信心を頂いて下さる皆さんが、確かに合楽流であります、その合楽流の中に又皆さん流というのがある訳です。
だから、私がそげな事じゃいかん、私流になれと云うのではなくて、それは、赤もあれば、青もある、水色もあれば、茶色もあると云う様な色合いというものが、あって初めて色彩を放つという事になって来る、私がカーキ色が好きだからというて、カーキ色一色という訳にはいかん、むしろそれとは反対の色、云うなら、私の生き方と反対の生き方、云うなら、私に害する生き方、私の為にはならない生き方、そういう生き方もあって、又、よしなんです。
そうですよ、それがあるからこそ信心が成長する、だから、親先生あなたの仰有るとおりですと云う人があって良し、あなたの生き方はどうもおかしいと、云う生き方の人もあって良いと思う、それが、私は大きくなる事だと思うです。
大きなおかげを願うなら、やはり大きな心にならないけん、それには、自分の心の中に、一切のものを清濁あわせ飲むと云ったような言葉がありますかね、信心でそれが頂かれる時に、愈々おかげが偉大になって来ると思うです、偉大な信心とはそう云う様な信心と思う、それがくぎ付けであっては、そういうおかげにはなりません。 偏見です、窮屈です、ですから、長う続かんのです、人が違った事をすると、もうそれが気になって気になってたまらん、まあ、私の性格的に云うと、そういう一つの個性というか、そう言うものを持っておる私は、まあ、私はどちらかと云うと奇麗好きです、だから、お掃除なら、お掃除でも、こう片っ端から片付けて行かなきゃ気が済まん、それに、私のそばに居る人達がです、ろくそうな人があると、もう本当に、お前は散らかすばっかり、俺は片付けるばっかり、例えそういう私と家内であっても、私はそういう事であってもです、自分が綺麗好みだからと云って、綺麗にしないともうそれが、辛抱が出来られないとか、それに耐えられないとか、私は助かってないのです。
それを自分が綺麗好みという事は、それは良い事です、けれど、他人までもそれでないと許されないという事が、あって良かろう筈がない、この辺は矢張り修行です、私も、その事は非常に修行させて貰いました。
ここでこうやってご覧になって、ここの御弊木がよごうどった事は無いでしょうが、ところが、お届けなさるたびに、これが動くのです、わざわざそちらにこう取ってから、よごまけちから行く人もあるくらいです、我よかごとこげして置いて行く人もあるです、この人ばかりはろくそうなかと思いよったのがです、そう言う事をサラサラ思わない、ただ、その都度都度にこうやって私だけは、キチッとする事をつとめるだけでございます。
どうしたあの人はろくそうな人じゃろうかと云うたら、私は助かってないと云う様にです、矢張り大きな心にならにゃいけません。
何事もくぎ付けではない、こうだと決めつけたり、決まっておる事は無い、いやむしろ、それとは反対の事があってもそれを相容れられるところの心の状態というものが大事なんです。
昨日の朝のご祈念に、野口さん達が親子3人連れでお参りなっとりました、もうそれこそ元気一杯で、一昨日の朝のお届けに、野口さんが近頃から、主人の方がちょっと信心の方が、ぐずぐずしとりましたから、朝起して一緒にお参りさせて頂いて、もう本当に親先生、おかげを頂きましてから、合楽教会大発展の事を祈り願わせて頂いておれば、もう自分の家が発展のおかげ頂き、もう主人なんかは、この頃会社では、野口さん此の頃はあんたえらい若返ったと冷やかされるくらいだ、本当に親先生の健康を願っておれば、合楽教会の発展を願っておれば、自分の家は発展のおかげを頂いておる、自分の家は健康のおかげを頂いておるという、お礼のお届けが一昨日でした、けども、くぎ付けではないですね。
昨日も、熊本の方へ嫁行っとられる娘さんと3人でしたが、昨日は、子どもさん達が大祭にお参りが出来ない、熊本の方もお参りが出来ないから、お供えだけをさせて頂いてというお届けであった、又、息子さん達親子3人も、その後に参って参りましてから、奥さんの里の方え、だから、16日の御大祭に会われないのは残念ですけどもと云うて、お供えだけをもってお参りだけすると。
そして、参られてからすぐ、もう8時半9時もありましたでしょうか、下がっとりましたら、今、参って来たばかりの娘さんが、お母さんが自動車にはねられて、顔をけがしとられますと、こう云う、どうぞ、おかげを頂きます様に、血が一杯出ておると、こう云う、その詳しい事を聞かなかった、その時、丁度、私はお食事するばっかりでしたから、自分の食前にお箸をキチンとこう並べるのですけれども、こんな風に食い違った様に、私の前にやってある、そこを頂いた。
箸と云う事はお取次ぎという事ですから、アラッと思うた、それからすぐその後に田中さんが、先生とても私共が見たら重態の様にありますから、お願いして下さい、と云うて見えられた、そしたら、私の処えあの浮世絵の額がかかっとりますね、あの下にこんな落款が押してある、それが茄子の落款です、それを頂いた。
そして、それには真中に茄子一杯の穴があいとるとこ頂いた、私は先の娘の暁子さんが参って来た時の、お知らせと云い、今、田中さんがお届けされた事と云い、それを云い、これを云い、あぁこれは大変な事だな、茄子という事は、安心という事でしょう、しかも、それにはそれ一杯の穴があいて、後からそれを良く見たら、その中に八の字が書いてある。
昨夜、私、日田の共励会でございましたから、あちらへ行った方達が返って来て、高橋さんと文男先生と。丁度、昨夜は、キッチリ2時半までお通夜させて頂きました、2度めに娘さんがお願いに見えた時には、お国替えの事のお届けであった、もう、話を聞かせて頂けば頂くほど、まるきり夢の様な話である、まあ、昨日は終日その事で、いろいろと感じさせられたんですけれども、本当に、神様の1分1厘間違いの無い働きの中にあっておる事をいよいよ感じさせて頂いた。
まあ、今日のご理解に云うならです、小さい子どもさんがね、大きな万寿笠をかぶって雲水の姿です、梅林寺の坊さんの様な姿なんです、丸い帽子、しかも子どもさんが、大きな大人の万寿笠をかぶっているといった様な、お知らせを頂いた。
だから、これは私だけではありますまいけれども、私に大きゅうなれ大きゅうなれという事である、万寿笠がどうも大きすぎる、そのためには万寿を小さくするのでなくて、万寿とは、万の寿と書いて頂きたい、そのおかげを小さくするのではなくて、此のおかげをおかげたらしむる為に、私がもっと大人にならなければいけない、その事を通して大きくならなければいけないというご理解であった。 私は、本当に本気で稽古しとる人達が、いろんな場合に直面致します場合に本当に信心とはこれだな、信心とは有り難いなと思わせて頂いたが、頂くのですけども昨日の、野口さんのお国替えの事でも、本当に私は驚くばかりであった。
まもなく冨永先生逹が、ご夫婦でお礼に出て見えた、そして、そのどう言う事ですか、あれほど信心するのに、どうしてこう言う事が起こったちゃろうかねという事は、もうこれから先も申しませんでした。
自動車の中で夫婦で、こっちへ参りますのに、ただ、心配であったのは、親先生が大変なショックを受けておられる、その事相済まんという思いであった、お家に帰られて、姉妹皆で、もう兎に角どうしてではなくてですね、これからお母さんが云うておった、又、お母さんが残しておった、又、お母さんが喜んでくれると云う事を、の答えを出して行く事に勤めようと話したというのです。
だから、告別式の事でも親戚がいろいろあられましょうが、今までは仏教でしたから、という事でしょうけれども、お母さんが何を一番願っておるかと云うと、合楽で告別式をして頂き、親先生の祭主のもとに、告別式をして頂く事が親の一番の願いであろうし、それが、親の御霊様の喜びであろうと、私は思うから、これは、私ども姉妹で、どうでもそうさして貰わにゃいけんよと云うてお参りして来たのが、ここへ一番のお届でした。
その後に上野先生がお届けしとりましたが、竹内先生の時の告別式に、もう繰り返し繰り返し、何というそのお道での告別式の素晴らしい事じゃろうか、これは本当に嫁や子ども連れでもよかけん、お参りさせて貰わにゃいけじゃた、嫁にこの事を見せとかにゃならなかった、私が死んだら絶対合楽ばいと云う事を、云うとかにゃならなかったと云うて、上野先生にお届けされた。
その事を昨日暁子さんが云ってますね、お母さんは、その事だけを私どもに、もう私は違わん、コロッと死ぬと云っておった事も、本当にコロッとじゃったと云うてですね、云って居る。
私どうしてと、いうところには、もう後退らんぞと思うですね、訳は判らん、何故かそれはあまりにも、深遠な御神慮ですから、判りませんけれども、判りませんけれども、神様がおかげを下さらうとする働き以外には無いという頂き方がです出来て来る。
私が二十数年前に、上滝勇さんと云えば、その時椛目のもう一番の人気者ではあるし、一番おかげの頂き頭と云われる方であった、その方がお国替えの時に、お届けに見えた時には、私はそれを聞いてから、御神前に出る事よりも、便所に這入ったです、そして、自分の心を落ち着けて、ようやく御神前に出るくらいな、だからあのくらいなおかげ頂いとるのがどうしてだというのか、早かったわけです。
もうそれこそ上滝さんが亡くなると同時にですね、お参りが半分に減りました、私はその事をお詫びのしるしに100日間、朝座って夕方の4時までは、もうここを動かないという修行さして貰うた。
あの時、私は、血の小便に行くほどの修行でした、おかげで100日の修行が終わった頃には又、御信者さんは、元に帰るほどしだったけれども、その私の心の中に、どうしてというものがあったからなんだ。
昨日も、嘉朗さんが裁ち物に来て、上野先生と2人でやっとる、ずっとこの間から、自分が仮死状態だった時の事を上野先生にさせて頂いたそうですが。
家内が、泣き喚きしながら、父ちゃま父ちゃまと云う時には、もう百斤の重みをね、云われんけどねそれを薄々感じた、ところがいよいよこれは難しいぞと、皆が感じたであろう時に、家内がね、その事は放って置いて御神前にご祈念しておるという事を頂いた時にはね、その百斤の重みが無くなるほどしの、もう悔やんだり泣いたりと、それの反対の事の時には、こんなに重荷になるものだという事をね、昨日、上野先生に話して、本当に昨日は、おかげ頂くというて、先生お届けしとります。
そうなんです、私共がどうしてという事は、不平不足なんです、けど神様がこうして、愈々私共が大きくなる為におかげを下さるなと、思うたらです、それはいわゆる、重いものが軽うなる様な、おかげになって来るのです。
私どもの信心が所謂くぎ付けであってはならない、と云う停滞しとると云うても、そこで足踏み状態という事は絶対ない、必ず止まっておる時には後退しとる時である、だから信心はいつも私共が前向きというか前進に前進あるのみだという頂きかた、私は、昨日、野口さんところの子供の生き方というのが、これは前進だと思うですね。
二十数年それこそ、体がむりむり云う様な事が沢山ございましたがね、私も、けどそのむりむり云う時ほどしに、これを信心にて受け抜いて行く事によって、合楽はその都度都度に繁盛のおかげ頂いて来たという事です。
今年はもう、合楽にとって大事な人というのが次々に、お国替えのおかげを頂かれましたけれども、もうその都度都度に合楽の信心は、異常な迄に、繁盛して来たという事実なんです。
問題は受け方、いわば今度の野口さんのお国替えもそうなんです、これを信心で受け抜かせて進ませて頂くところに、これが繁盛の元にならない筈がない、愈々合楽教会大発展を祈っておられた、その合楽教会大発展の祈りの根というところを今度はつとめて下さるんだという風に、私は頂いとります。
そういう頂き方がです、私は信心が長う続く事であり、くぎ付けではない、信心というものはそう言う事だと思う、それで一時でも信心が停滞する事が無いという信心、くぎ付けでは無いという事。
もう本当に神ながらという事を昨日、野口さんのお国替えから感じさせて、もう本当にこれほどしのてんやわんやと云うほどしに、ここではいろんな御用があっとるのですけれども、成る程、その一人一人の御用というものが、もう停滞する事なしに、例えば私の控えでは、西岡先生が、祝詞を作成しておる、上野先生と幾人かの嘉朗さん逹は研修室で裁ち物、御大祭の準備をしておる。
末永先生と久富先生は、今晩の前夜祭の準備がちゃんとさせて頂いとる、そこえ、お国替えというお届けがあった、それから、若先生はあちらへ早速行っていろんな祭壇、告別式の準備させて頂いておる、若い先生方は皆今日の告別式に出来る様に万事万端の上に、脇殿の方に準備にかからせて頂いておる、もうその、滞るという事がない。
昨日は、原さんところの三十日祭でした、ですから、それは、若先生が行く筈でしたけれども、末永先生が、こちらの御用を済ましてやらせて頂いた、それから、日田の大分支部の共励会である、これには万端終えさせて頂いた西岡先生が皆さんとご一緒にあちらへおかげを頂いた。
もうその辺のところはね、もう一糸乱れないその働きというか、今日でもそうです、今日3時の告別式ですからどうぞ皆さん、おかげ頂かれます様に、3時から告別式が行われる訳ですけれども、まあ、今日頂いて見なければ判りませんけれども、今日の前夜祭になんの支障もきたす様な事もなからう様にあります。
その辺のところ、時間的に、日々的にです、本当に神様の一部一厘間違いのない働きの中に、痛い事も、有り難いい事も、悲しい事も、起きておるんだと思うただけでも成る程おかげとして、お礼を申し上げねばならない、そういう心の状態が、愈々大きくなる事ではなかろうか。
雲水の、子供の雲水のご心眼を頂いたという事は、私の信心がまだ子供である、まあだもうそれこそおかげを頂かなければならん。
昨日の朝の御祈念に、私は、皆さんにお話しなかったけれども、これは大変な修行だなと思うた事は、こんなに大きな西瓜を頂いた、その西瓜が地球儀なんです、西瓜という事は、水火も辞せずと云う程の行でしょう、と、これは、私にとっても矢張り修行だった、可愛いい子供を亡くして、悲しくないという親があろう筈がない、それこそむりむり云うごとある、けどもそれがおかげと判った時にです、お礼が云えれる心が生まれて来るのだ。
世界真の平和とか、世界に我賀心時代を創ると、創らねばと云う程しの、そういう大きな祈り、そういう大きな願い、又、神様から、そういう願いに掛けられる私、合楽教会に掛けられる願いというものが、これは、大きゅうならなければ出来る事じゃないという事、なら大きくなるという事は、どのような事であっても、どのような場合であっても、一歩たりとも、後へ退かないだけの信心、不退転の信心がなされて行くという自分の心の中に有り難く受けていけれる信心、所謂、雲水行であるる。
雲水と云う事は、流れる水、行く雲の様な生き方と云う事は、成り行きを大事にと云う事である、その事柄そのものを御事柄として受けて行く事である。
そういうおかげを頂く為に、だから、愈々私が大きくならにゃいけん、折角の毎日神様が下さろうとしとる、万寿笠のおかげをね、私が一寸法師のごと小さかったんではです、これでは似合わんです、釣り合わない、為には、私が大人にならなけりゃいけん、私が一段と信心を大きくして行かなければならない。
大きくなれば、そこに私共が大きくなろうとしとる願いが成就して来ると云う事にもなるのです。
そこで私は昨日、文男先生たちと話しをした事でしたけど、あんただん、どげん思うかて、この雲水行の事のお知らせを頂いた時にね、あんたどう思うかて、これは私が大きゅうならにゃんて云う事だから、これは、合楽教会が大きくなる為にも、私が大きくならにやいけんのだ、なら私が大きくなる事はどう言う事なのか、大きくなる為に障害になるものがある、その障害なものを取り除いていかねば、大きくなろうならでは、大きくなれないという事である。
只、大きくなりさえすればよかじゃいかん、只、清濁併せ飲む丈じゃいかん、大きくなる為には、大きくなる為に障害なものがある、それを取り除いて行くという事が、愈々改まるという事なのです。
皆さん本当に大きくなる為には、これじゃ大きくなろうにも、なり様が無いというものが、お互いの中にあるのです、それを取り除いて行くという事に、これから私の信心が、精進される事になりますがです、皆さんとても矢張、ここんところを頂いて下さらなければ、合楽教会に期待されとる素晴らしい働きになって来ないと思うのです。
信心は何事もくぎ付けではない、その為には、各自が銘々にしとらんならんところが大きくならなければならないという事、必ず白だけでなからなければ、赤だけでなからなければならんという事じゃない、けれども自分の目障りになる様な、自分の色でないものがそこにあるのが目障りになる様な事では、自分がが小さい証拠ですから、それが一つも心に触らぬほどしの矢張、修行をなさらなければならない。
そういう修行をしよらんと長う続かんのです、しかも、長う続くという事はです、おかげが愈々大きくなって行く事につながらなければ、ただ、信心が長う続いとりますだけでは駄目だという事、それには、今日皆さんに聞いて頂いた、内容を内容としてのね、信心の進め方に、取り組まなければならんと思うのです。 どうぞ。